今日は、丸亀・金比羅街道を散策したんw
金比羅街道は、丸亀、多度津、高松、阿波、伊予・土佐街道って
全部で五街道あるんやって。
お伊勢参りと並んでな、昔の人は
「一生に一度はこんぴらさんへ」っていう感じで
よく参られたらしん。
それが最も盛んだったのは、江戸の頃やったみたい。
そんな丸亀・金比羅街道、12キロを出発〜(13時45分スタート)
歩くの大好き
”まっきー”と、歩くの大嫌いの
”ぷらりん”と
ほとんど歩くことがない
”スタッフKさん”でお届けします♪
1番目は、丸亀市西平山町の
「太助(たすけ)灯籠」「
あ・・・・・バッテリが・・・」
「
どしたん?」
わたくし、一眼レフのカメラくんの、バッテリーを
充電した後、コンセントさんに預けたままです><。。。
やむなく、カメラくんは、お留守番となり、
スマホさんとお出かけです・・
と、話を戻しますw
現在の太助燈籠は、天保5年(1834)にみんなの寄付で作られたん。
最高額80両を寄進した塩原太助さんの名前がついてるんやってー
海上の安全を願って、江戸を中心に“常夜灯千人講”ってのが
作られて、4千人近い人たちの寄付が集められたてできたらしい。
2番目は、太助燈籠のすぐ近くにある
「みなと公園の一対の石灯籠」中府三軒家にあった3基のうちの2基なんやって。
天明8年(1788)岡山古手屋中の寄付で、明治24年(1891)に
中府の大鳥居のそばに移されて、平成元年に再びみなと公園に移されらしいん。
もう1基は善通寺市の金倉寺に、今はあるんやってー。
みなと公園には、モクレンも咲いてたー
3番目は、地図にはのってないけど、みなと公園の西側にも灯籠があるよー。
4番目、丸亀駅の裏手にも石燈籠ヽ(^o^)丿
丸亀の商店街をてくてくあるいて、
「妙法寺」の前を歩いて、次に見つけたのはこれ!5番目。
これも地図にはないんー
「
道間違えたけど、こっちにもあるんやー」
ぷらりんの、誘導で辿りついたのは、
6番目
「寿覚院山門前の灯籠と道標」丸亀市南条町〜
元丸亀藩主山崎家の菩提寺寿覚院の山門前の燈籠なんw
「左金毘羅道」「本宮百五十八丁」って刻まれてるん。
2枚目の写真の道標は、南条町有志による
明治13年(1880)建立で、北面に「すくこんひら」東面に
「左こんひら道」南面に「右かわくち」と刻まれとるー。
どちらも平成6年にここに移されたんやってー。
「
すぐちゃうやん!www」
石灯籠は、よく見たら、寄付した人の名前がのっとるw
7番目は、
「南条町の石灯籠」丸亀市南条町〜
明和元年(1764)に農人町と南条町の信仰熱い人たちによって
建立された常夜灯で、これは、当時の場所にままやって。
現存ってすごいなーー。
8番目は、
「鶏鳴軒(けいめいけん)の道標」丸亀市中府町〜
大正3年、鶏鳴軒という散髪屋さんが建てたもので、
こんぴら道標の中では最も新しいんやって。
明治になり、三軒家から善通寺を通って琴平へ行く広い道(大久保道路)が
開通したけん、阿波へ向かう人のために、
ここからまっすぐ行く新しい道を教えるために作られたん。
「西ぜんつうじことひら道」「北汽車海岸へんろ道」「南きのさ きだいせん阿波街道」って
刻まれてるよ。
「
こんなんある!!」
昔のこの辺りの町の名前かな?
旧町名だってー
「旧農人(のうにん)町」丸亀市中府町5丁目4番地付近
こんなのもあったー。
「旧餌指(えさし)町」丸亀市中府町5丁目9番14号付近
調べてみたら、他にもあるみたいー。
と、9番目、
「百四十丁石灯籠」丸亀市中府町〜
文化5年(1808)建立されとるん。
「百四十丁」「金毘羅大権現」と刻まれた丁石を兼ねた灯籠。
元々は普通の道標でやったんが、後に燃料燃やすとこつけて、
灯籠道標になったんやってー。
10番目は、
「百五拾丁石の起点石」丸亀市中府町〜
丸亀湊(川口)から移されたともいわれとって、
「従是金毘羅江百五拾丁」と刻まれとるんやって。
中府大鳥居すぐ北側の歯科医院の横にあって、
かつて駕籠(かご)かきの詰所があったが、
明治14年ころからは人力車にかわったらしいん。
11番目は、
「中府の大鳥居」丸亀市中府町〜
こんな所に、鳥居さんがあるん、しらんかったーー(゜o゜)
金刀比羅宮の一の鳥居。花崗岩ででけた明神造りで、
高さ22尺(約6.7m)、柱の間15尺(約4.5m)、
上部中央に「金刀比羅宮」と書かれた青銅製の額があるよ。
これは、明治4年(1871)に大阪府堺、山口県、青森県や
地元丸亀県の人々によって建てられたけど、
昭和18年(1943)地震で崩れたんを、金刀比羅宮が修復したみたい。
12番目は、
「《平成の丁石》五丁」丸亀市中府町〜
「
五丁って、言うても分からん・・・」
「
五丁、五丁、1尺が30cmぐらいやろ?だけん、その辺りの単位やわ」
「
ふーん・・・・(全く理解していない)」
調べてみたら、”丁”は距離の単位で、本当は”町”らしいん。
ほんで、大昔は6尺を1歩として60歩が1丁(町)、
次に太閤検地の時に、変更されて6尺3寸を1間として60間が1丁(町)。
難しい・・・・(T_T)/~~~
1町=約109.09mらしいですw
と、平成の丁石にはな、金比羅街道のどの辺りにおるか分かるんでー
「
今、どの辺り?」
「
ここーー」
「
ここ・・・・」
まだまだ先が長いです。
時計はと、14時29分です。
歩き始めて、45分〜
香川県道33号高松善通寺線を横切って、
丸亀の城西コミュニティの前を通ってどんどん歩くんw
13番目
「《平成の丁石》二十丁」丸亀市柞原町〜
だんだん数字が増えて行くんやなー。
14番目は、
「柞原の常夜灯籠」丸亀市柞原町〜
これは、文久3年(1863)に金毘羅大権現へ奉献のために建てられ
とって、台座に「右こんひら道」とあり、道標も兼ねてたみたい。
「
次は何?」
「
自然燈籠〜、2、3キロ先かなー」
「
2、3キロ〜(~_~)」
思わず、スタッフKさんとともに、悲痛な声出してしもたわ。
「
あっ、200メートルかな?」
「
えらい違いや!!!」
ぶつくさ言いながら、辿りついた
15番目は、
「正面寺の自然石灯籠」丸亀市柞原町〜
丸亀の港から歩いて最初に出会う自然石の灯籠で、
万延元年(1860)村中安全を祈って建てられたんやって。
味があるなーー(^−^)
「
ちょっと休憩しようー」
リュックに忍ばせていたバナナを食べるのだ‐‐w
16番目は、
「一里屋の灯籠と丁石」丸亀市郡家町〜
灯籠は明治7年(1874)地元の人々によって建てられて、
六角の中台には十二支で方位が示さ れとるん。
竿(一番長いとこ)には
「東高松」「西いよ こんそうじ せんつうじ」「南金毘羅」「北丸亀」って
書いてるん。
隣の丁石には、「是より鳥居まで百丁」
「願主 京都 田原越前守藤原 ○○」「取次 丸亀三原屋」って
刻まれとるん
昔、土に埋もれ忘れ去られそうになっていたのを平成に復活したんやって。
17番目は、
「両宮の石灯籠」丸亀市郡家町〜
丸亀の郡家にある「神野神社」参道を「皇子神社」に
向かう途中にあるんや。
奉献したものやって。
18番目は、
「神野神社前にある石灯籠」これは、地図にはないん。
これは、地元の人が寄付したのみたいw
この道沿いはなー、ずっと歩いてると、飯野山が見えて
癒してくれるよー。
コンビニ入って休憩〜
指さしてる辺りにおるみたいw
もう16時14分。歩き始めて、2時間30分!
まだ、丸亀を脱してないってことは、何時につくんやろ。。。
秘かに足も痛くって、不安。
やけど、みんな頑張りよるけんって気合いをいれるんや!
19番目は、
「郡家の茶堂賽祷碑」丸亀市郡家町〜
昔、丸亀のお殿様が郡家の茶堂に寄った時、
神野神社の神主さんがお出迎えに出てきて、
その時に、烏帽子のひもが殿様より長かったんやって。
当時、ひもが長いほど位が高かったけん、
お殿様が休めないということになり、
茶堂を与北に移したって言われてるみたい。
ほんで、賽祷碑は、肥後の美作九平治一族が、
八幡さん(神野神社)と金毘羅さんの神恩に報いるため
雨傘千本を献じて感謝の意を表し、国家安全、商運吉祥を
祈ることを記したものやって。
でもな、見つけられなかったんや。。
20番目は
「五十丁石」丸亀市郡家町〜
五十丁というのは、金毘羅街道の約三分の一の道程なん。
全工程が百五十丁やけん。
でも、中府の鳥居から計っても、丸亀の港から計っても、
距離があわんらしいん。
道路工事のために移動されとって、
元の場所は分かんないんやってー
「
あ!あったよーー」
「
ほんとやー」
キョロキョロが特技の私、どちら様かのお家の庭木の中に
めっけた!
21番目^^
22番目は、
「角下組石灯籠と七十丁石」善通寺市与北町〜
24番目の「角上組石灯籠」と一対と思われるもので、
灯籠の竿に「奉献永代常夜燈」「金毘羅大権現」「寛政七年九月」って
刻まれてて、そばに七十丁石が立っとるん!
やっと善通寺に入った〜
23番目は、
「与北茶堂跡」善通寺市与北町〜
街道のほぼ中間に位置してる最も大きい茶堂やったらしい。
東西4間、南北5間、内部は土間で十一面観音像を祀ってたんやって。
(現在は、丸亀市土器町西の宝光寺に安置されている。)
七十五丁石、石灯籠、駒乗石、石の手洗鉢、石橋、沓脱ぎ石のほか
丸に金印の巴瓦もあって、石灯籠は街道で一番高く、
火袋が六面、中台も六角で、
一辺に一字ず つ「金毘羅大権現」と書かれている。
立派な燈籠やったよー。
24番目は
「角上組石灯籠」善通寺市与北町〜
竿には「奉献永代常夜燈」「金毘羅大権現」
「寛政七年九月吉祥日」って刻まれとる〜
ふと見たらな、「こんぴらさん」がある、
象頭山が遠いけど、みえてきたーー(^−^)
25番目は、
「山下の道標」善通寺市与北町〜
道の分起点に立つ道標。字も彫りも鮮明で、
「右金刀比羅道 左大川剣山道」「すぐ丸亀」と刻まれてとるん。
丸亀の人々が建てたもので、「明治拾一歳」と面白い書き方をしとるよ。
「
Kさん、みてーーもう半分過ぎたよー」
平成の丁石の裏見ると、元気づけられるーー
スタッフKさんも、にこにこ(^−^)
歩きながら、東側見ると、山がきれいにみえとるん。
山の名前を、スタッフKさんに教えてもろたよー。
26番目は
「公文の茶堂跡」まんのう町公文
富隈神社の手前、酒店の隣に茶堂があったんやけど、
街道が衰退したので明治27年(1894)に建物を
山手の吉祥寺に移し本堂にしたんやって、
今は、茶堂跡は畑〜
でも、ピンクと黄色のお花がきれい!
そしてついに!まんのう町へーー
3町制覇!!!!
17時23分。
歩き出してから、3時間半。
日が沈んできよる。。。
でもな、きれいなお花、みつけたん♪
こういうのに、勇気づけられるなあー。
27番目は
「富隅神社境内の灯籠と丁石」まんのう町公文〜
日が暮れそうなので、鳥居の下だけ<(_ _)>
富隈神社には、大正3年(1914)の神社統合の際、
付近の灯籠と丁石6本が移されてるんやって。
移設については、世話人が近江まで出向いて
奉納者に了解をとったらしいん。
大事にしてるってのが伝わってくるなー。
「
あっ、象頭山が近くなってるよーー」
「
ほんまやなーー」
28番目は
「案内板」と、「《平成の丁石》百十丁」まんのう町公文〜
夕日が沈みだしたよーー
土壁のお家を発見!
29番目は「自然石の灯籠と百二十四丁石」
まんのう町西高篠〜
竿に「金」の一字があるだけで、火袋以外は自然石のまま。
そばには、丁石にはもあるよ。
30番目は、「代官所跡」
琴平町苗田〜
江戸幕府は、寛永19年(1642)に苗田村、榎井村、五条村、
五毛村を天領(池御領)としたんやって。
ほんで、ここからあがる年貢を満濃池の改修や
用水路の整備費にあてたみたい。
そんな、代官所は、この地に設けられてて、
幕府から命ぜられた初代の代官守屋与三郎が
その職に当たった場所。
夕日が沈んじゃったよー
でも、我拝師山の形が浮かび上がってきれいー♪
もう琴平町に入ったけん、もうすぐや!
31番目は「藤の棚跡と百三十一丁石」
琴平町苗田〜
奈良出身の放浪画家、大原東野の住居跡。
絵を売って金毘羅街道の修繕費にあてたみたい。
東野のもとには文人墨客が集ったといわれてて、
丹精込めて作った藤棚は名所にもなっていたみたいで、
その藤棚は明治30年ころ金刀比羅宮北神苑に移植されたんやってー。
32番目は「横瀬の石鳥居」
琴平町榎井〜
明治4年(1871)の建立。
備前児島・塩飽島・丸亀・琴平の人たちの名があるみたい。
33番目が、鳥居の足元にあった、
「《平成の丁石》百三十五丁」
「この鳥居きたら、もうちょいや!」
なるほど、もうすぐみたいーー
34番目は、「横瀬の石灯籠と地蔵堂」
琴平町榎井〜
地蔵堂は、嘉永7年(1854)横瀬と金毘羅茶屋の人々が
寄付したんやって。
寛政10年(1798)備中国酒津村の梶谷伊平治が願主となり建てたん。
竿に「金」の字が刻まれた美しい灯籠らしいんやけど、
スマホでは、明るさが限界なので写真は載せられません><
35番目、「高灯籠」
地鎮祭から5年がかりで万延元年(1860)に完成。
高さ27mの高灯籠は、丸亀の沖合を通る船や
金毘羅を目指して歩く人々の重要な目印になってたみたい。
写真がいまいちやけど、灯りが灯ってたよー♪
お昼間みると、こんな感じでーす。
国の重要有形民俗文化財なん!
18時48分、到着!
ってことは、5時間弱でようやく、辿りついたよー
私らは、コンビニよったり休憩しながら来たけど
昔の人って、道もよくないやろうし、大きな荷物を持って
このこんぴらさんを目指したんやろうなーーって思うと
すごい感慨ぶかかった。
別の街道も機会があれば行きたいな!
2014/3/22
より大きな地図で 金毘羅街道 を表示